労働または神学

天災なり人災なりとにかく災難がだれかに降り掛かる度にこれは天罰だとかいう向きがあるがこう言った言説は非常に保守的な聖書神学的立場にも肯定されない。むしろ聖書は、なにか不条理とも思える災いがあったとき、それを個人が主体として受け止め、思考し、どこに神がいるのかを祈り求めることとして教えている。それは20世紀半ば、戦後に流行した実存主義に受け継がれる考え方であり、ドストエフスキーキルケゴールの書物のあり方はそこにまさに一致した。ヴェイユのあり方など、そのまま、キリスト教的実存のあり方として今日まで新鮮さを失っていないだろう。

 

いま、資本主義の崩壊を目の当たりにしようとしている。そのきっかけが微生物によってもたらされるであろうことは幾人もの哲学者、科学者、精神医学者、経済学者が指摘していたはずのものであり、生命倫理の課題として最も今日的かつ緊急な課題であった。

 

その上、森林火災まで起こる。地球が怒っているのだと誰もが考える。これは天罰ではないか、そうでなくとも地球による自浄作用なのではないかと。だが、それは「考える葦」が折れたときにとっておくべきことばだ。

 

我々は行動し、同時に考え、そして書く。その手を、労働を止めてはならない。

 

であるから、これに反するような言動、すなわち「行動するな、考えるな、書くな、表現するな」という圧力めいたことばには疑問をまず持たなければならない。そして抵抗しなくてはならない。

 

神が死んだなどというニヒリズムに屈するわけにはいかない。