労働または神学

天災なり人災なりとにかく災難がだれかに降り掛かる度にこれは天罰だとかいう向きがあるがこう言った言説は非常に保守的な聖書神学的立場にも肯定されない。むしろ聖書は、なにか不条理とも思える災いがあったとき、それを個人が主体として受け止め、思考し、どこに神がいるのかを祈り求めることとして教えている。それは20世紀半ば、戦後に流行した実存主義に受け継がれる考え方であり、ドストエフスキーキルケゴールの書物のあり方はそこにまさに一致した。ヴェイユのあり方など、そのまま、キリスト教的実存のあり方として今日まで新鮮さを失っていないだろう。

 

いま、資本主義の崩壊を目の当たりにしようとしている。そのきっかけが微生物によってもたらされるであろうことは幾人もの哲学者、科学者、精神医学者、経済学者が指摘していたはずのものであり、生命倫理の課題として最も今日的かつ緊急な課題であった。

 

その上、森林火災まで起こる。地球が怒っているのだと誰もが考える。これは天罰ではないか、そうでなくとも地球による自浄作用なのではないかと。だが、それは「考える葦」が折れたときにとっておくべきことばだ。

 

我々は行動し、同時に考え、そして書く。その手を、労働を止めてはならない。

 

であるから、これに反するような言動、すなわち「行動するな、考えるな、書くな、表現するな」という圧力めいたことばには疑問をまず持たなければならない。そして抵抗しなくてはならない。

 

神が死んだなどというニヒリズムに屈するわけにはいかない。

インスタからの転載

『Tribe Called Discord:Documentary of GEZAN』神谷亮佑

いい人や悪い人やドラッグや大自然なんかに触れて音楽を発見していくみたいなものかと思いきや、予想を遥かに突き抜けてコンラッドの「闇の奥」的アメリカ旅行でありました。それというのも、友好と自然、人間と憎悪と闇に触れて、日本の闇とそれが地続きであることを知り、仕事もできなくなり廃人寸前の監督を映すシーンが一番笑えるっていう見事な青春映画的なシーンが撮れてしまったからだと思います。あそこは泣けました。

そもそも国や国籍の違いなんて、大したものではないということと同時に、あるいは逆説的に、人種や土地の歴史と差別の歴史が否定しようもなく目前にあるということとのまっとうな矛盾にぶつかりぶつかって砕けないところにぐっとこないわけにはいかず。

血でできた泥沼の中をもがいて、血の上に立っていることを自覚して生きねばならないこと。彼らの抵抗の武器が音楽であるということ。その音楽が、シャウトでだけでなく、搾り出したことばであること。あるいは、ことばにできなさ、ならなさをシャウトした上で、なお、ことばを探り当てることを諦めないこと。

これらの事実を見せられて、名前くらいしか知らなかったこの人たちを大好きになったし、感動に震えました。つまり優れたドキュメンタリーでもあったわけです。

 

「今日、横にいるひととか、後ろにいるひととかのことを知らないかもしれないけど、同じ空間で音楽の 下にいるっていうのは、いろんな政治家がやろうとしても出来なかったことで、音楽が持ってる力だと思ってて…… これがオレらの政治なんで。どういう方法でもいいんで反応して下さい。あなたの声を聞かせて下さい。GEZAN」

 

そのとおり、政治とはそういうものであるはずです。「葛藤する部族」としての地球の美しき地獄めぐり=ツーリズム。 「この線路を降りたらすべての時間が魔法みたいに見えるか?」の痛切さを思い出しつつ。

 

※1 同時期に見たせいか、『天気の子』がディストピアを肯定したことに対して、こちらはユートピアをすら肯定することを躊躇している。比べる意味はないけど、必死さが違いすぎる。

 

※2『捜索者』か『地獄の黙示録』との2本立てがよいと思います。

インスタから転載

 

『天気の子』 新海誠 2019/JP

 

かなりよい商品だと思いました。パッケージとして完成されていますよね。とくに脚本が完成されていて、前半の突拍子もなさ(拳銃、天気の子でお金稼ぎ等々)を後半に勢いよく回収していく、前作同様の展開。大衆文化というものはこうでなくっちゃと思います。ただ、それだけの代物です。

この程度のものが肯定的に消費されていくのが今の日本そのものと言わざるを得ない。功利主義の罠をうまく回避しているようにみえて、愛でもないし、恋ですらなさそうな、単なる欲求で「世界の形を変えた」ことを誇らしげに語り、それを「ぼくらはきっと大丈夫」と悪びれることなく結ぶという力技に資本主義の末期を見せられました。

この「大丈夫」は、例えば、『もののけ姫』の「アシタカは好きだ、でも人間を許すことはできない」と、その厳しさにおいて、苦しさにおいて比べようのないくらい軽い。サンが引き裂かれていたあの台詞こそが愛であり、この「大丈夫」は単なる独我論でしかないのに、それをまるごと肯定しなさいという作り手の浅はかすぎる身勝手さを単純に許容してしまうのであればそれはあまりに悲しいことではないですか。宮崎駿高畑勲の遺産のある国でよくこういうものを作れたものです。

そもそも、「3年」という月日の悲しさをジャン・ルノワールは30分で教えてくれたじゃないか。映画を作るものとして、忘れたとも知らないとも言わせない。


ぼくらの祖父母がもがき苦しんだ20世紀を亡きものにする、本当によい商品ですわ。